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千葉 乗隆、真宗教団の組織と制度、同朋舎、東京、1978 (Chiba Noritaka, The organization and rule of the Shinshū breatheren, Dōbōsha, Tokyo, 1978)
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千葉 乗隆、真宗教団の組織と制度、同朋舎、東京、1978 (Chiba Noritaka, The organization and rule of the Shinshū breatheren, Dōbōsha, Tokyo, 1978)
Resistance to established authority by the sō institution – growth of the village in conjunction with the Nembutsu faith

惣村は農民の支配者にたいする抵抗体として生まれてきたものであるが、真宗教団も権力支配の社会を否定するものであったから、両者の追及目的や手段は異なっているが、権力支配にたいする抵抗という点において、たがいに共通するところがあった。しかも真宗教団の社会的基盤は農民階層にあったので、惣村の成長と念仏集団の組織は、やがて無関係には考えられなくなる。すなわち、惣村をつくりあげ権力支配からの解放をもとめる農民は、古い宗教的権威や政治権力の世界を否定する念仏に解放の道を見出した。そしてこの時代は、支配者階層において闘争がくりがえされ、権力支配は統一あるものではなかったので、農民の団結は容易に行われた。とくに室町時代以降さかんになる農民の抵抗運動である一揆による権力支配否定は、本願寺蓮如の農民を主体象とする布教によって、来世にたいする安心を得て現世においてより大胆に行動することにより、守護・地頭にたいする抵抗力をたかめた。そして一揆の主力は門徒農民によって占められることになり、いわゆる一向一揆とよばれる運動を通じて、門徒農民の組織はいっそう広くかつ緻密(ちみつ)となり、ついに惣村との一致というかたちに近づいた。(37)

`Kebōzu and the Dōjō` 真宗において寺を建造することは本来これを認めない。覚如の「改邪鈔」(Kaijyasō?)に、親鸞は「造像・起塔は弥陀の本願にあらざる所行」として「造寺土木のくわだて」を禁じ、「道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげてつく」り、ここを念仏者の集会の施設とするよう指示したと伝えている。かくて親鸞在世中は、寺は一カ寺も存在しなかったが、覚如の時代になると寺を建てるものが若干みられ、以降すこしずつ増加した。しかし、その寺院増加の進度は、江戸時代初期までは極めて徐々で、寛永年間(一二六四―四四)から急速に増えた。したがって、江戸時代までは、真宗の伝道施設としては、道場が主であった。

道場が建てられると、その建物を管理し、門徒の集会を主する道場主が必要となる。あるいはこれとは逆に、篤(あつ)信者があって、彼を中心とする門徒が、集会の場を必要として道場を設立する場合もある。ともかく道場には道場主が居なければならない。その道場主は、いわゆる非僧非俗の姿を規範とした。すなわち、親鸞は自らを非僧非俗と称し、その手本として、賀古の教信沙弥(さび)をあげている。そして「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるようにふるまふべからず」(改邪竃鈔)と論したという。(127)

俗人が所有主または道場主である道場を毛坊道場(俗主道場)と称するが、さらにその源流は親鸞の非僧非俗の姿に認めることができる。 毛坊主という呼称は、坊主の頭に毛のあることである。元来、坊主頭といわゆるように、僧侶は剃髪するから、頭に毛髪はない。ところが飛騨・美濃・越前・加賀などの山奥の真宗の村では、頭に毛をもった俗人が僧侶の役目を果しており、これを毛坊主と称する。 毛坊主という呼称は、各地方で必ずしも一様ではない。美濃国徳山地方では、道場坊とか道場番という。越前国穴馬では道場役、加賀国尾口ではオ坊サマと呼ぶ、毛坊主という名称は主に飛騨地方で用いられている。(130)

© Greg Pampling. This page was modified in December 2011